2021年03月27日

日本で「経済的価値ゼロの人間」が大量発生する日。

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「あなたは経済的価値ゼロの人間です」
そう宣告される日が近い将来やって来るとするならば、あなたはどう考えるでしょうか。
「まさか、そんなはずはない」と思うかもしれません。
しかしこのことこそ「近未来の現実」に他ならないという大前提で、今回はグローバル・ドラッカー・フォーラム(Global Drucker Forum)に参加した時のことをご紹介したいと思います。

(ピーター・ドラッカー:Wikipedia)

日本で経営学の泰斗「ピーター・ドラッカー」を語る有識者は大変多いです。しかも「ドラッカー」と銘打つとそれまで全く無名であった著者の本であってもベスト・セラーになったりするのだから不思議なものです。ドラッカーが日本において愛されているのには理由があります。それは彼がとりわけ1980年代の「平成バブル」の前後に日本における企業経営の特異性を指摘し、しかもそれを排除・批判するのではなく、むしろ“これこそ在るべき一つの形である”と公言してくれた点にあります。爾来、いわば「訓詁学」の様にドラッカーは日本経営学の基本とされ、人口に膾炙するようになってきたというわけなのです。

ですが、(後ほど述べるとおり、ロスチャイルド家すらコミットしている)このグローバル・ドラッカー・フォーラムに私を除くと、日本から誰も参加していなかったことからも明らかなとおり、私の目からするとこうした「訓詁学的対応」は全くもって見当違いに他ならないのです。なぜならば経営学とは結局のところ「論調(narrative)」を流布させることに米欧の統治エリートにとっては本質があるのであって、それはベースにある基礎知識は均しいことを前提にしつつも、絶えず変化していくべきものとされているからです。現にチャールズ・ハンディ(英)、あるいはヘンリー・ミンツバーグ(加)といった日本経営学からすれば“神々”の様な経営学者や社会思想家たちがまたぞろ集められているこのフォーラムでは、「ドラッカーの言葉」がところどころで引用されるものの、あくまでもそこでの関心の主体は“今とこれから”とされていたのです。

つまり経済・社会・政治の動態分析こそドラッカーの精神を受け継いで行うべきものなのであって、かつてドラッカーが吐いた言葉の一つ一つを金科玉条の様に反芻し、訓詁学を創り上げることが為すべきことではないのです。そしてこうした動態分析のためには、米欧の統治エリートと直結するこれら経営学・社会思想の”神々“がその都度語る”論調(narrative)“こそその源流においてウォッチし、誰よりも早くそれが語られることの「意味」とその後のあり得べき展開を考えるべきなのです。ところがそうした現場の一つであるこのフォーラムには、日本の「ドラッカー専門家」たちは私を除くと誰一人として出席していないのです。このことだけでも、日本のいわゆる経営学が抱える危機的様相がうかがえるわけであり、もっといえば高い料金を払って「ドラッカー講座」などというものに出ることにどれくらいの意味があるのか、大変訝しく想ってしまうのです。

このフォーラムには、その背後にハーヴァード・ビジネス・レヴューという一大言論機関が控えています。全世界の名だたる企業のCEOたちが「常識」として目を通す同誌が持つ影響力は絶大なものです。そしてそのスクリーニングを経て、このフォーラムで共通のテーマとして設定される題材が、正に米欧の統治エリートたちが考えている“今とこれから”を如実に反映していることは明らかなのです。この時のフォーラムのテーマは「私たちの人間性を訴える:デジタル時代のマネジメント(”Claiming our humanity – Managing in the digitalage”)でした。
このテーマ設定自体、大変論争的(polemisch)なものです。とりわけ日本の経済界、あるいは経営学にとっては重大なチャレンジだといっても過言ではないのです。

なぜならば日本ではここ数年、何かといえば「人工知能(artificial intelligence, AI)」全能論とでもいうべきものがマスメディアを通じて喧伝されているからです。曰く、「人工知能をいち早く開発し、取り入れ、製品やサーヴィスに接続すれば、今の経済的な苦境から日本は救われることになる」というのです。日本の日常において「AI」という言葉を聴かない日はなくなったし、もっといえば「モノのインターネット(internet of things, IoT)」、あるいは「インダストリー4.0(Industry 4.0)」といった言葉すら徐々に広く語れるようになっているのです。何かそこにすがるような形で光明を求めている私たち日本人の姿が目にくっきりと浮かぶのです。
しかし、米欧のトップ・エリートの間では全くもって違うのです。そこではシリコン・ヴァレーで「AI研究」をする者がいる一方で、HRM、すなわち「人財マネジメント」という非常に困難な課題に取り組み、かつこれを巨大な世界的産業に育て上げてきている一群がいるのです。彼・彼女らは「永遠の課題を与え続けてくれる人財なるもの」が企業社会において圧倒的な位置を占めてくれない限りは、”メシの食い上げ“になってしまうのです。したがって一方ではデジタル化やAIとその周辺について仔細な分析をしながらも、むしろ「それらが出来ないこと」を徹底的に追究し、そこで見出したものに自らの存在意義を懸命になって植え付けているというのが現状なのです。そしてそこで最終的な権威・判断基準として用いられるのが、今から40年前、時には50年前にピーター・ドラッカーが語った「珠玉の言葉たち」なのです。そう、ドラッカーはある意味、「AI」の押し寄せる波に対する防波堤として用いられているというわけなのです。
フォーラムでは総じて言うならば次のような議論が今回のフォーラムでは繰り広げられました:

―これから生じるのは(1)技術的に見るとAI開発に見られるように華々しい展開であり、(2)ビジネス上はそれをいち早く有効活用したプレイヤーによる寡占状態でとなる一方、(3)政治的に見るとデジタル化の急速な進行によって「経済的価値ゼロ(zero economic value)」と判断された人々の大量失業に伴う、動乱、圧倒的な人数の人々がもはや職場(workplace)にはいられなくなるという近未来の現実をどの様にとらえていくのかこそ、焦眉の課題です。

―デジタル化の急速な進行によっても私たち人間の脳の作用時間は全く変わっていない。変わっているのはビジネス・プロセスが大幅に短縮されているという点にあり、そこではいわば「待ち時間(waiting time)」が急激に減っている。

―さりとてデジタル化が進行していることには変わりがないのであって、これによって経済・社会の全体が大いに揺さぶられ、変化に満ちたものへとますますなっていく。しかし逆にそうだからこそ、職場において人々は安定性(stability)を求めるのであって、マネジメントはそれをもたらす「戦略(strategy)」「企業文化(corporate culture)」「中心的な価値(core value)」に専心すべきなのです。

―デジタル化の急激な進展によって、実のところ私たち人間自身は何も変わっていないことに留意する必要がある。なぜならばそこで開発された技術をもって登場したインターネット系の企業は結局のところ、何かを生産しているのではなく、生産者から消費者へと至る道のりを仲介している(facilitate)に過ぎないからだ。むしろデジタル化によって経済・社会が徹底して破壊され、そこで元来あるべき共同体(communities)までもが存亡の危機に立っている点が大問題だ。人間には第1の人生として「仕事」、第2の人生として「家庭」、そして第3の人生として「共同体」が必要ですが、この3番目の柱が今、デジタル化によって壊されているのです。

―マネジメントがデジタル化によって危機に立たされているのは、これまで企業経営に際して要であった「秘密」をもはや守ることが出来なくなったことによる「秘密」をインターネットに乗せた瞬間に、それが漏洩するのが当然の世の中になってしまったからです。

―デジタル化の進展が昨今著しいからといって、それがこれまでの経済発展の歩みと全く無関係というわけではない。これまでも知的産業化という趨勢の中で、従来ならば人間の手で行っていたことが次々と機械にとって代わられてきたことを知るべきです。そして知的業務は今後、加速度的にアルゴリズムにより置き換えられていくことになるわけだが、そうではあっても何が一体「人間が為すべき仕事」として残ることが出来るのかは冷静に考慮する必要がある。
具体的にいうと人間が行う知的作業は次の6つに分けることが出来る:

・知見をシェアすること(教育すること)
・新しい知見を創造すること(新しい「勝ちパターン」を見つけること)
・情報を最適な形で組織化すること
・評価し、推奨すること
・決定すること(選択肢から選ぶこと)
・イノヴェーションを行うこと(複数を結びつけること)

この内、最後の2つ以外は今後、デジタル化によって取って代わられることになるでしょう。
その一方で最後の2つは人間に残された課題であることを忘れてはなりません。

さらに今後数十年間にわたってデジタル化により職場で進む現象を述べるならば次のとおりです。:

・タスク毎に(より精緻に)組織化すること
・仕事を(より効率的に)統合していくこと
・就業環境を整え、就業者がその人間性を最大限発揮できる環境を整える中で顧客ニーズを真正面からとらえることのできる価値を提供し続けること
・制度としての企業ではなく、就業者個人のスキルが絶えず問われる中、企業と就業者の関係性が複線化すること

―デジタル化の進展によって急激に進みつつあるのが、シェア経済化の浸透です。
その背景には経済・社会が総じて過剰供給能力(excess capacity)を抱えるに至っており、インターネット技術によって潜在的な需要者と供給者のいずれをも瞬間的に、かつほとんどコストをかけずにつなぎあわせるという意味でのプラットフォームの構築が次々に行われているのです。
これらはこうした過剰供給能力を(1)分割し、(2)集合化させ、あるいは(3)公開する、という3つの方向性をとっているのが特徴です。

―一方、このようなデジタル化の急激な進展に伴うシェア経済化の趨勢の中で問われているのが「信頼(trust)」の問題です。
そもそも経済において「信頼」には(1)財・サーヴィスを提供している企業に対するが主流であったが、これからは(2)インターネット上のプラットフォームにおいて価値を直接提供してくれる個人とそれを需要する個人との間の信頼(peer trust)へ重点が変わっていく。取引コストが圧倒的なデジタル化の中で激減される中、競争上の優位とされてきた企業の特徴が次々にコモディティ化し始めているのであって、経済の中心はもはや「企業」ではなく、価値を直接提供する「個人」に移っていることを見逃してはなりません。

―デジタル化の進展によって世界はますます”VUCA”化していきます。すなわち(1)volatility、(2)uncertain、(3)complex、(4)ambiguousです。。これに対応出来る人財の特質もまた”VUCAなのであって、(1)vibrant、(2)unreal、(3)crazy、(4)astoundingである必要があります。

―デジタル化が進展し、メールなどにおける「テキスト」、あるいは対面ではない「動画」によるコミュニケーションだけに専心する者たちが次々に現れているが、これはビジネスという観点では決定的に間違っている。なぜならば対面することで話者が相手方の気持ちへと入っていくことが何よりも重要だからであり、事実、弁護士事務所で「積極的に外に出て顧客と対面する弁護士」と「事務所に籠りきりとなり、とにかくインターネットで顧客とやりとりすることに専念する弁護士では、前者の方が遥かに受注率が高く、収益をあげているという統計が米国で出されている。音声によるコミュニケーションが極めて重要です。

―一方、人間が行っているのは文脈(narrative)の形成であり、これを行うことが出来るのは人間だけなのであって、そのことは個人、組織、国家のいずれをとっても変わらない。あらゆる機会があることに基づきながら文脈を形成していくところに人間社会の本質があるのです。
―現在、デジタル化の急激な進展によって台頭しているインターネット系企業はとどのつまり、人々の間を仲介(facilitate)しているにすぎない。その意味でプラットフォームなわけです。が、それを利用する人間の側において運命(destiny)へと自らの人生の舵を切る際、その決断を下すはあくまでも人間です。ことに留意し続けなければならない。全ての人間はユニークな存在なのであって、その力をもって世界に人間として貢献するにはどうすれば良いのかと考える時、はじめてこうした重大な決断を行うことが出来るのです。

―「働くことの意味」が今、正に問われている。それは(1)「意味ある仕事」、(2)「意味ある人的関係」、(3)「意味ある進展・成長」の3つに細分化されるが、これらのいずれをも働く個人にとって顕在化させてくれるのがデジタル技術なのです。そしてソーシャル・メディアの多くがこうしたことについて気付かせてくれるセレンディピティ(serendipity)をもたらしてくれることも重要です。

以上見てきたとおり、日本において大騒ぎされているような「AI全能論」などといった単純な構図で米欧の知的エリートたちが語り合っているわけでは決していないのです。むしろそこでより正確に言うならば「その次の時代」に向けての考察が既に始められているというわけなのです。このことを、とかく米欧の側から枠組み(フレームワーク)を与えられると、それを金科玉条のように温め、スペックをやたらと細分化することをもって良しとするきらいのある日本に暮らす私たち日本人は、今から認識しておかなければならないでしょう。

ここでもう2つ。
今回、スポンサーとしてこのフォーラムを大大的に支えていたのは本来ならばあれほどピーター・ドラッカーの世話になっているはずの日本の大企業ではなく、中国の最大手家電メーカー「ハイアール(Haier)」でした。そしてその創業者であり、CEOである張瑞敏氏が出席し、パネリストとして堂々と振舞っていたのが極めて印象的でした。ハイアールは中間管理職を一切廃する一方、全員がアントレプレナーであるという精神を徹底させるという人財戦略を強烈に推し進め始めていることで知られています。「失業を増やしているのではないか」という批判があるのではというのに対して、張瑞敏CEOが「アントレプレナーとして企業内起業するチャンスが与えられているのだから何も問題ない」と豪語していたのが忘れられカリスマ型経営、ミッション型経営を経て、「官僚型経営」へと陥らないための努力を懸命にし始めている中国企業に、日本の大手企業は果たして太刀打ちできるのでしょうか。

そして何よりも忘れられなかったのが、たった10分の登壇ではあったものの、最終セッションの極めて重要なパートで、リン・フォレスター・ド・ロスチャイルドE.E.Rothschild LLC CEOが登壇していたことです。欧州系国際金融資本がこのフォーラムに強くコミットしていることがここからもうかがわれたわけですが、それよりも何よりも、今回、同女史が語ったのはただ一つ、「包含的資本主義のための連合(Coalition for Inclusive Capitalism)」であったという点です。ロンドン・シティ(City of London)と共にE.E.Rotchschild LLCが立ち上げたこの「連合」を語る者は日本において皆無ですが、要するに企業たるもの、経済的利潤の極大化ではなく、社会・政治的な側面でももっと責任を負い、その改善のためにもっと行動せよというのでした。
ちなみにこの基準からすると、米系インターネット企業の“雄”であるはずの「アマゾン」は、経済的に見ると優等生だが、それ以外の側面では明らかに「劣等生」なのだといいます。日本においてもここに来て同社を巡っては労組結成などといった話題に事欠きませんが、明らかにここで巨大な「論調」が強烈な形で打ち出されたことをマークしておかなければならないりません。
すさまじい勢いで世界史は”次“に向けて動かされつつあるからです。

急激なデジタル化の結果、既に過剰供給されている価値は徹底してシェアされ、やがて経済的な価値を失っていく。
そこで儲けることができるのは仲介をするためのプラットフォームをネット上で誰よりも早く創り上げた知恵者だけです。
しかしこうしたトレンドの真逆があることを心しておかなければならないのであって、過剰供給されていない価値を徹底して追い求めると、それのみがコモディティ化されることはなく、高収益を持続的に手にすることが出来るのです。
今回のフォーラムを通じて強く感じたのは、そこで繰り広げられる「論調(narrative)」の裏側にある本当の”勝ちパターン“あったことです。この基準で判断した時、私たち日本人全体がいかに「これらのどちらでもないもの」にしがみついているのか、また日本においてスタートアップといってもそこで提供する価値が「過剰供給されているもの」を仲介(facilitate)というビジネス・モデルに収斂していないことを想わずにはいられないのです。






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